お気に入り、時々つれづれ

映画、本、お気に入り、つれづれ

【雑談】カテゴライズしたがる心理~グラデーションの一部でよくない?

近、SEKAI NO OWARIの「Habit」って曲の歌詞に

グッときている。

  みんな自分を分類・区別したがるけど、その悪い癖やめようよ、

  だって、君に自分を分類する能力なんかないんだから

ってニュアンスの歌詞なんだけど、ほんと同意!!

 

愛的指向だけでも、色々なカテゴライズがあるらしい。

この前、何かで見たのだが、ある女の子が深刻に悩んでいて、

(確か、恋愛的指向についてだったと思うのだが)

「自分は分類としては○○なのに、違う部分がある。

自分のカテゴリがわからなくて苦しい」と。

 

彼女にとって苦しいのは、はっきり分類されない状態なのだ。

そもそも、分類する必要ないのでは?

分類する意味ある? と

ずーーーーっと意地悪くつっこんでいたのだが、

気持ちが全くわからないわけではない。

 

分の意志に関係なく、所属させられている集団と

同じ感情になれず違和感ばかり感じていた小中学生の頃は、

自分は欠陥人間なのではないかと、すごく悩んだ時期があった。

でも、環境が変わって世界が広がった時、

同じ感覚の人が割と存在すると知って、安心したのを覚えている。

むしろ所属していた集団が「八つ墓村系」だったと気づいたときは、

耐え抜いた自分を絶賛したい気分にすらなった。

 

例え自分がマイノリティ側だったとしても、

カテゴライズされると居場所ができる。

その、「居場所がある」って感覚は、ちょっとした安心感を生む。

でも、その分類作業は、厳密にできるもんじゃない、

ということだけは頭の隅に置いておきたい。

 

は7色ではない。国によって認識が違うそうだ。

日本人は7色だと思っているが、ドイツ人は5色だと思っている

それに、虹は光のグラデーションだから、色の境界は曖昧。

正確に、どこからどこまでが何色とは決められないのだ。

www.blanc39.com

 

同じ虹を見ても、国によって色の認識が違ったり、

そもそも色の境界がはっきりしないように、

人をカテゴライズする時の精度は、その程度だと思う。

色んな要素を持っているし、環境や時間の経過で変わりうる。

ちょうど、シャボン玉の表面のようなものじゃないかな。

 

 

分探しなんかしない方がいいと思ってる。

「本当の自分」なんて、どこにもないんじゃないかな。

会社とプライベートでは、どっか別人だったりするし、

リードしたり、甘えきったり、相手によっても違う。

 

グラデーションカラーのたくさんの要素を持ってて、

シャボン玉の表面のようにうつろってる。

「自分がどういう人間か」なんて、

そのくらい曖昧でいいんじゃないかな。

私は、それこそ考える意味もないと思っている派だけれど…。

 

性がない、目標がない、夢を追いかけてない、、、

自分をそういう目で見始めた時、「自分探し」をしたくなる。

たいていは、退屈な時間がそうさせるのだが。

 

そういう時は、自分を探しにいくんじゃなくて、

自分を徹底的に甘やかしてみるといい。

1個500円の梨を食べてみる、

肌触りのいいタオルやパジャマに替える、

ティッシュやトイレットペーパーを少しだけいいものにする、

履き心地の良い靴に新調する…

 

そんなにお金をかけなくても、

使う頻度が高くて肌身に触れるものの質を少し上げるだけで

「あ~美味しい!」「あ、気持ちいい!」の小さな積み重ねがある。

 

それは、結構な幸せを感じさせてくれると思う。

しかも、割と頻繁に。

 

幸せを感じるのって、一日中ずっと、ではないにしても、

毎日、小さな幸せを感じる、それで十分じゃないかな。